『マチネの終わりに』『ある男』などで知られる小説家・平野啓一郎さん

平野さんが、小説を除いて、ここ十年間で最も書きたかったのが「カッコいい論」。誰もが日常的に使っている「カッコいい」という言葉ですが、自分のアイデンティティを考えるうえで、「カッコいい」という概念への理解を深めることが大切だと平野さんは言います。

 

朝渋では、新書『「カッコいい」とは何かの発売を記念し、平野さんに「カッコいい論」を語っていただきました。

〈文=井手桂司(@kei4ide)、写真=狐塚 勇介〉

【平野 啓一郎(ひらの・けいいちろう)】1975年愛知県蒲郡市生。京都大学法学部卒。1999年在学中に文芸誌「新潮」に投稿した『日蝕』により 第120回芥川賞を受賞。以後、数々の作品を発表し、各国で翻訳紹介されている。『葬送』『決壊』『ドーン』『かたちだけの愛』『空白を満たしなさい』『透明な迷宮』『マチネの終わりに』『ある男』などの小説を刊行。



自分の「カッコいい」を否定されると、腹が立つ。

ー 平野さんが「カッコいい」について意識しはじめたキッカケを教えてください。

平野さん:
僕が、学生時代にバーテンダーのアルバイトをしていた時のことです。

男性客ふたりが、プロボクサーの辰吉丈一郎の生き様がカッコいいかどうかをめぐって談笑していました。でも、お互いに一歩も引かないので、雰囲気は次第に険悪になり、果てはつかみ合いの大ゲンカにまで発展してしまった。それを見て、「なぜ、こんなに真剣にケンカしているのだろうか?」と、不思議に思いました。

ただ思い返してみると、僕自身も似たような経験があります。僕は小学校6年生の時にエレキギターを買うくらい、洋楽のロックが好きで、レッド・ツェッペリンが僕の「カッコいい」の対象でした。

でも、中学校のクラスの友達にレッド・ツェッペリンについて話すと、「はぁ、何それ?」みたいな反応をされる。すると、とても傷つくし、場合によっては腹が立ちます。しまいには、「自分とは違う」と相手に距離を感じてしまう。

やっぱり、みんな、自分が「カッコいい」と思う対象に対して真剣なんです。「カッコいい」は、自分のアイデンティティに深く結びついている。

「自分とは何か」という問いを巡るにあたり、「カッコいい」の概念をきちんと捉えたいと思うようになりました。

「カッコいい」という言葉が生まれた背景

ー 平野さんの本を読んで、「カッコいい」という言葉が1960年代までなかった事に驚きました。

平野さん:
そうなんです。僕もこの事実は面白いと感じました。誰に話しても、「そうなの?」と驚かれます。

なぜ1960年代に「カッコいい」が生まれたのかを考えていくと、第二次世界大戦の存在が大きかったんですよね。戦前は国家主義のイデオロギーに社会が支配されていたから、自分が崇拝する対象が自由ではありませんでした。当時、「俺は、デューク・エリントンの方がカッコいいと思う」と発言することは許されなかった。

それが戦争が終わり、国家主義が消え、いつ死ぬかもわからない緊張感からも解放された。すると、若者たちが人生の目標を見失なってしまい、途方にくれてしまった。

当時、ふたつのことが必要だったと思うんです。ひとつは、「何のために生きるべきか?」という、生へのディレクション。もうひとつは、「俺は生きている」という生の実感です。

そんな時に「カッコいい」の代名詞として登場したロックやジャズは、体感的にしびれさせてくれる存在だったんですよ。「生きている」という興奮があったし、ミュージシャンたちの生き様を見て、「自分もこうなりたい」と強い憧れを抱くことができたんです。

「これこそ俺の求めていたものだ」という感激から始まる。

平野さん:
これは日本だけでなく、イギリスやアメリカなど海外でも同じです。伝説的なミュージシャンの自叙伝を何冊も読んでいくと、はじめてロックやジャズを聞いた時の衝撃体験が生々しく書かれています。そこには論理的な説明はなく、ただ「背中がゾクッとした」「一瞬で汗が吹き出した」という生理的な興奮が強調されてます。

同時に、そのシーンにはこれこそ俺の求めていたものだという言葉が書かれています。これも「カッコいい」にとって、とても重要な要素です。

「格好がいい」という言葉は、江戸時代から文献を見ていても登場しています。「格好がいい」とは、あらかじめ理想像が知られているなかで、その理想像と合致している時に使われる言葉です。

一方、「カッコいい」は理想像が事前には共有されていません。ロックを聞いて「カッコいい」と感じた人たちは、もともと自分が聞きたい音楽の理想像を知っていて、それにピッタリと感じたわけではないんです。

求めている音楽の姿かたちはわからないけれど、何かを求めている。そして、しびれるような体感を味わった瞬間に「これこそ俺の求めていたものだ」と感激する。

この「カッコいい」が持っている機能のおかげで、20世紀後半に次々と生まれた新しい文化に対して、社会が理想像を知らないままでも、素晴らしいものとして受容していけたんですよね。

「体感」がないまま、理想像を考えることの難しさ

ー 現在も「一人ひとりが生き方を考える」時代だと思います。そういう意味で、自分が「カッコいい」と思える対象を探すことは大切だと思いました。

平野さん:
そうですね。そして、やっぱり、そこには「しびれる体感」が伴っていることが重要です。

「自分のロールモデルを見つけよう」とよく言われます。ですが、理屈だけで「自分もこういう人間になるべき」と考えても、なかなか必死にそうなろうとは思えません。一方、その人の演説を生で聞いて、震えるような感動をした体験があると、「その人みたくなりたい」と強く思うことができます。

僕が10代の頃に文学へ深くのめり込んでいった理由も、三島由紀夫の文章を読んで、しびれるような体感を感じていたからなんです。

三島の『金閣寺』を読むと、文章の一つひとつに華麗な比喩表現が散りばめられています。僕はそれを「美しい」と感じましたけど、そういうしびれをもたらしてくれる存在を「カッコいい」と思っていたことに気づかされました。

三島由紀夫の文章にしびれることで、自分自身も「こういう文章を書きたい」という強い憧れを抱くようになった。そこからですね、自分でも何か書いてみたいと思うようになったのは。

小説も「体感」を生むことが大切

ー 平野さんご自身も、小説を書かれる際には、読者に体感を与えることは意識されますか?

平野さん:
「与える」という言葉は不適当ですが、やっぱり、小説も「体感」がないとダメだと思うんです

「涙が溢れる」「思わず嘆声が漏れる」「ズシンと来る」など、何か身体的な反応がないと、読み応えがありません。それは、心地よいものだけでなくて、なんともいえない気持ち悪さがモヤっと残るみたいなものも含めてです。

僕が小説を書く時には、描きたいテーマが象徴的に表現されたクライマックスのシーンがイメージできないと手をつけません。そのシーンには理屈に収まらない体感が必要でしょうね。

ただ、そのためにはプロセスも大切です。体感的なものを生み出すためには、クライマックスに至るまでに、効果的に言葉を組み立てていかないといけません。

そういう意味では、バンドの曲づくりと小説は似ているかもしれません。ダメなバンドの曲って、伝えたいメッセージと曲の盛り上がりがズレているんです。一番伝えたい歌詞が、Aメロくらいのところにあって、サビで重要じゃないことを歌ってしまっている。

感動する曲は、本当に伝えるべきメッセージが、一番盛り上がるメロディーとカチッと重なっているんですよね。心に残る曲をたくさん作る人は、それが上手くできています。

言葉で結びついた時に、憧れが増幅する

ー 体感に加えて、「カッコいい」と思われるの人の特徴に、多くの「名言」を残していることも書かれていましたよね。

平野さん:
そうなんです。しびれるようなスゴいスポーツ選手のなかでも、「カッコいい」対象として見られている人と、そうでない人がいます。

そして、「カッコいい」と見なされる人は、かなりの確率で語録が残っています本人たちが言葉で語ってくれると、しびれる体験をした側はその理由を言語化しやすい。漠然と感じていたものが、言葉として自分の中に定着していくからなのだと思います。

僕はマイルス・デイヴィスをカッコいいと思っていると、本のなかで散々書きましたが、彼に深くのめり込んでいったのは、自叙伝を読んで生き様を知ったことも大きいです。

黒人であるマイルスは、アメリカ社会からひどい人種差別を受けてきたにもかかわらず、ビル・エヴァンスのような白人でも、実力さえあればメンバーに引き入れました。そのことを面白く思わない黒人のミュージシャン仲間たちから文句を言われても、「オレは演奏さえ上手い奴なら白でも黄色でも、赤でも青でも構わない」と言うわけです。

こうしたエピソードを読んで、音楽だけでなく、生き様も素晴らしいと思い、改めてしびれました。そして、僕自身もいつの間にか、「人間を肌の色で判断するのはカッコ悪いことだ」という価値観を持つようになりました。

やっぱり、「カッコいい」と感じた人には、内面もカッコよくあって欲しいと僕らは思います。だから、「カッコいい」と思っていた人が、トンチンカンなことを語り始めると、ガッカリしてしまう。失望して、怒る人もいます。

だから言葉は、すごく大切なんです。言葉のおかげで、「カッコいい」存在の内面や生き様に僕らは触れることができる。その人の表面的なカッコよさと、内面から発さられる言葉が結びついた時に、その人の存在は大きなものになるのだと思います。

自分が感じた「体感」を大切にしよう

ー 最後に、平野さんが「カッコいい」に魅力を感じる理由を、改めて教えてください。

平野さん:
僕が「カッコいい」に魅力を感じるのは、人を自発的に動かす独特の力があるからです

現在は「どうやって生きていったらいいのか」ということに対して、ひとつの大きな正解はなく、それぞれが自分で見つけるしかない時代です。

自分が「カッコいい」と思える存在と出会うと、誰かに強制されたわけでもないのに勝手に努力を始めたり、人生の指針が自分の中に築かれます。

マイルス・デイビスの名言で「立派なミュージシャンであり続けるには、進歩し続けるしかない」という言葉があります。マイルスにそう言われると、僕も進歩し続けないといけないと素直に思えます。もし、他の人にそんなことを言われたとしたら、「なんで、そんなことをお前に言われないといけないんだ」と思ってしまうかもしれない(笑)。分人主義でもありますね、この話は。

やっぱり、「カッコいい」存在を見つけると、人は自分に謙虚になれる気がしますだから、「カッコいい」と思える存在が自分の中で増えていくといい。

そのためにも、自分が感じた「体感」を大切にしてください

人に説明をするときに、「なんかいいと思った」と伝えると、あやふやすぎてバカにされそうじゃないですか。でも、そのしびれるような体感こそ、僕は大切にすべきものだと思っています。ボードレールも「感じることが大切」と言っています。

ただし、「カッコいい」は悪用もされますし、その倫理性を批評的に問うことも大事です。

自分が「カッコいい」と感じたものには価値があると思って、前を向いて人生を歩んでもらえたらと思います。

〈文=井手桂司(@kei4ide)、写真=狐塚 勇介〉

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